LOGIN紅茶を吹きそうになった私は、しばらくスマホを見つめていた。
『父が、近いうちに琴葉さんに会いたいと言っています』
焼き菓子の甘さが、一瞬でどこかへ消えた。
玲央さんのお父様。
鷹宮征一郎社長。
以前、名前だけは聞いている。
実務を担う現社長で、不器用で、言い方が硬い人。
母よりは普通が信用できる。
玲央さんはそう言っていた。
けれど、比較対象が静華さんである時点で、安心材料としてはかなり心細い。
『それは、仕事としてですか』
私は迷った末にそう送った。
既読はすぐにつく。
『違います。父として、琴葉さんに会いたいそうです』
もっと怖かった。
仕事なら、まだ資料を持って行けばいい。
質問に答えればいい。
目的も立場も明確だ。
でも、父として。
その言葉は、契約婚約者という設定の上に、重い
試験導入が始まって、三日目。 私は朝から、結和ケアとの共有フォルダを何度も開いていた。 現場向け確認カード。 初回説明用資料。 家族向け説明文。 どれもまだ試験版だ。 完成ではない。 むしろ、ここから崩されるために出したものだと思っている。 そう思っていた。 思っていたけれど。『三行目の「地域連携室へつなぐ」が、具体的に誰へ連絡すればいいのか分かりにくいです』『配食スタッフの場合、対応したことを一つだけ残すと言われても、どこまでが対応に入るのか迷います』『家族へ連絡済みかどうかを確認できる欄がほしいです』『カードは見やすいですが、訪問支援と配食で同じ文言だと少し合わない気がします』 届いた意見を読んで、私は机に額をつけたくなった。 文句が出るとは聞いていた。 でも、実際に並ぶとなかなかの迫力がある。「琴葉、生きてる?」 朱音が隣から声をかけてきた。「文句に埋まってる」「仕事してるね」「もう少し優しい言い方をして」「改善材料に包まれてる」「包まれ方が重い」 私は顔を上げ、もう一度意見の一覧を見た。 きつい。 けれど、読んでいるうちに少しずつ分かってくる。 これは、ただ否定されているわけではない。 見たから出た文句だ。 使おうとしたから、引っかかった場所だ。 読まれていなければ、何も返ってこない。◇◇◇◇ 昼前、宮坂さんとの短いオンライン打ち合わせが入った。 画面越しの宮坂さんは、いつもの落ち着いた表情だった。「朝比奈さん、意見がいくつか出ていますね」「はい。かなり出ています」「いいことです」「いいこと、ですか」「はい」 宮坂さんは、少しだけ笑った。
結和ケアの現場向け説明会は、夕方に行われた。 訪問支援のスタッフが戻ってくる時間に合わせたため、会議室には少し疲れた空気が漂っている。 それでも、席はほとんど埋まっていた。 高梨さんが前方に座り、宮坂さんは少し後ろで全体を見ている。 私は配布用の資料を手に、深く息を吸った。 今日持ってきたのは、三種類。 初回説明用の一枚資料。 家族向けの説明文案。 そして、三行の確認カード。 前なら全部を一つにまとめていたと思う。 でも今は違う。 読む人が違えば、届く形も違う。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。鷹宮グループの朝比奈です」 私が頭を下げると、何人かが軽く会釈を返してくれた。 好意的な人もいる。 警戒している人もいる。 当然だと思った。 新しい仕組みは、現場にとっていつも歓迎されるものではない。「最初に、皆さんからいただいた言葉を一つ、そのまま使わせてください」 私は資料の一番上を示した。「利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です」 会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった。 誰かが小さく頷いた。 高梨さんも、こちらを見ている。「この仕組みは記録を増やすためのものではありません。皆さんが気づいたことを、次に必要な人へつなぎやすくするためのものです。だから、試験導入では三つのことを先に約束したいと思っています」 私は指で一つずつ示した。「既存記録と同じ内容を、別の場所へ二重に書いていただく形にはしません。転記を前提にしません。迷った時の確認先を一本化します」 前列の男性スタッフが手を上げた。「でも結局、何かは書くんですよね」「はい」 私は頷いた。「ゼロにはできません。ただ、毎回全部を書く形にはしません。いつもと違うことがあった時だけ、対応したことを一つ残してくだ
会社へ戻ると、私はすぐに新しいファイルを開いた。 現場向け確認カード。 タイトルを打ち込んでから、指が止まる。 三行。 高梨さんは、そう言った。 現場で本当に見るのは、たぶん三行です、と。 資料を短くするだけなら、まだできる。 けれど三行にするとなると、話が違う。 説明を削るどころではない。 何を残すかを決めなければならない。 私は画面を見つめたまま、結和ケアで聞いた言葉を思い出した。 利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です。 その一文を、カードの上に置くか迷った。 大事な言葉だ。 でも、それだけで一行を使ってしまう。 現場が本当に見る三行に、理念を入れていいのか。 それとも、別の場所に置くべきなのか。 悩んだ末、私はカードの上部に小さく見出しとして入れることにした。『利用者さんを見る時間を守るために』 そして、三行を打つ。 一、いつもと違うことに気づいたら記録する。 二、対応したことを一つだけ残す。 三、迷ったら宮坂さんへつなぐ。 短い。 短すぎる気がする。 でも、訪問前後の慌ただしい時間に見るなら、これくらいでなければ目に入らないのかもしれない。「琴葉、何してるの?」 隣から朱音が覗き込んだ。「三行にしてる」「何を?」「仕事を」「俳句?」「確認カード」 朱音は画面を見て、眉を上げた。「短っ」「三行だから」「本当に三行だ」「三行って言われたから」「素直」「素直というより、これ以上あると見てもらえないんだって」 朱音は少し黙ってから、画面に目を戻した。「でも、分かりやすいよ。何をすればいいかは分かる」
修正した資料を結和ケアへ送ってから、二日後。 宮坂さんから連絡が入った。『現場の反応が出ました。良いものも、厳しいものもあります』 その一文を見た瞬間、背筋が伸びた。 良いものも。 厳しいものも。 どちらか片方ではないことに、少しだけ救われる。 けれど、次の打ち合わせで共有された内容は、思っていたよりも正直だった。「まず、現場向けの一枚資料については、前よりずっと読みやすいという声がありました」 宮坂さんが言った。 私は小さく息を吐く。「ありがとうございます」「ただし」 来た。 私はペンを握り直した。「これでもまだ、訪問前には読まないと思う、という意見もありました」「……はい」 予想していた。 でも、実際に聞くとやはり少し痛い。 高梨さんが補足する。「読めないというより、読むタイミングがないんです。朝は予定確認で埋まっていますし、訪問後は次の移動があります。資料を読むなら、訪問前後ではなく、最初の説明会で頭に入れる形の方が現実的です」「では、現場向け一枚資料は、日々確認するものではなく、初回説明用に近いですね」「はい。毎回見るものは、もっと短くないと無理です」「もっと短く」 私は思わず復唱した。 高梨さんは、少し申し訳なさそうに笑う。「すみません。でも、現場で本当に見るのは、たぶん三行です」「三行」「何を見たらいいか。どこに記録するか。迷ったら誰に聞くか」 私は手元の資料を見下ろした。 削ったつもりだった。 かなり削ったつもりだった。 それでも、まだ多い。 けれど不思議と、前ほど落ち込まなかった。 具体的に言われたからだ。 三行。 それなら直せる。「分かりました。現場向けの確認
会社へ戻ってから、私は修正版の資料を開いた。 結和ケアで赤字だらけになった紙を横に置き、パソコンの画面と見比べる。 現場向け一枚資料。 試験導入の目的。 入力項目。 判断の流れ。 家族への説明。 全部、大事だと思って入れた。 けれど宮坂さんは言った。 現場向けの一枚目に、目的説明はいらない。 高梨さんは言った。 本当は二分で見たい。 二分。 その言葉は、思っていたより強かった。 私は一行目にあった説明文を選択する。『本試験導入は、地域内における生活支援情報の連携を円滑にし、利用者および家族への対応品質を安定化させることを目的とする』 丁寧に書いたつもりだった。 でも、現場の人が訪問前にこれを読んで、すぐ動けるだろうか。 答えは、たぶん違う。 私はその一文を削除した。 画面から文字が消える。 たった一行なのに、少し胸が痛んだ。 続けて、二行目も消す。 説明を短くし、順番を変える。 最初に置くのは、目的ではない。 今日やること。 いつ書くか。 誰へつなぐか。 そこだけに絞る。「朝比奈さん、かなり削りますね」 隣で確認していた事業推進室の担当者が、少し驚いた顔をした。「はい」「大丈夫ですか。情報が足りないと言われませんか」「言われると思います」 私は画面を見たまま答えた。「でも、最初から全部入れて読まれないよりは、使われてから足したいです」 言ってから、自分でも少し驚いた。 以前の私なら、足りないと言われるのが怖くて、念のための言葉を残していたと思う。 責任を問われないように。 説明不足だと言われないように。 でも、念のための言葉が増え
翌週の午前、私は結和ケアの会議室にいた。 大きすぎない机。 少し使い込まれた椅子。 壁際には、利用者向けの案内チラシや地域包括支援センターの連絡先一覧が貼られている。 鷹宮グループの会議室とは、空気が違った。 ここには、毎日の困りごとがそのまま置かれている気がした。「では、始めましょうか」 宮坂さんが資料を開いた。 今日の参加者は、宮坂さんのほかに、訪問支援チームの高梨瑞穂さん、事務側の担当者、そして私たち鷹宮側の事業推進室の担当者だった。 高梨さんは、最初から少し険しい顔をしていた。 怒っているというより、警戒している。 新しい仕組み。 新しい記録。 新しい入力。 現場にとって、それが必ずしも歓迎される言葉ではないことは、もう分かっている。「朝比奈さん、まず率直に言いますね」 宮坂さんが一枚目の資料を指で押さえた。「これ、現場は読みません」「……はい」 覚悟はしていた。 それでも、正面から言われると胸に来る。「説明としては丁寧です。でも、丁寧すぎます。忙しい時間帯に読むには長いですし、どこを見ればいいか分かりにくい」 高梨さんも頷いた。「現場の人間は、理念を否定したいわけじゃないんです。ただ、訪問前後の五分で確認できないものは、結局あと回しになります」「五分」「いえ、本当は二分です」 思わずペンを止めた。 二分。 私が作った説明文は、きっと二分では読めない。 分かっていたつもりだった。 でも、分かっていなかった。「それから、この項目です」 高梨さんが資料の中ほどを指した。「利用者の表情、会話量、室内状況、食事状況、服薬状況、家族連絡の有無。全部大事なのは分かります。でも毎回全部入れるなら、訪問記録が二重になります」「既存の







